光に遇う人生
では何故、それが驚きかと言いますと、それは人間の知恵でわかったのではないからです。
私たちのふりかざす知恵は、自分に都合の良いことをあたりまえとし、都合の悪いことはあたりまえではないとし、自分と他を比較し、他を排斥し差別する知恵です。
その自分勝手な知恵が打ち破られたとき、「あたりまえ」が「あたりまえ」でなかったと驚き、「あたりまえでない」が「あたりまえ」だったと驚くのです。
それを打ち破るのは、限りない「いのち」のはたらきです。限りある「いのち」の私がすべてだと思い、そこにとどまって得手勝手な知恵をふりかざし、他を傷つけている、そのことさえも気づかなかった私にはたらきかけて、私の思いを打ち破るのです。
限りない「いのち」から見た私たちの「いのち」には、「あたりまえ」も「あたりまえでない」もなく、「普通」も「普通でない」もありません。あるのは「かけがえのない『いのち』」ばかりです。
限りない「いのち」とは、阿弥陀さまの「いのち」です。その「いのち」が叫び声をあげてくださったのが「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)
」であり、それは阿弥陀さまの智慧のはたらきです。
阿弥陀さまの智慧のまえには、自分の都合でくるくる変わる人間の知恵など、とうてい通用するものではありません。
人間の知恵で、「あたりまえ」と思っていたものが阿弥陀さまの智慧に出遇うと「それはあたりまえでないんだよ」ときづかされるのです。また「あたりまえでない」と思っていたものを「あたりまえなんだよ」と知らせてくださるのです。
さらに「あたりまえ」も「あたりまえでない」も、「普通」も「普通でない」もない、真実の世界を開いてくださるのです。
それは、限りある「いのち」から抜けきれないで生きている、私たちの日常を超えた彼方から、日常を生きる問題を、根本的に解決してくださる光です。
その光に出遇う人生こそ、驚きの人生なのです。