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本願を信じる

「あたりまえ」のことが「あたりまえでない」こと

ありがとう 仏教は仏になる教え 本当の幸せとはなにか

「あたりまえでない」が「あたりまえ」だった驚きーと表題の言葉を言い換えることもできます。
この二つの驚きは、実はひとつのことなのです。
さらに言えば、「あたりまえ」も「あたりまえでない」も、とものないと言うべきでしょう。

「老・病・死」を生きる


私たちは何気なく、「健康ほどありがたいものはない」、「失ってはじめて健康のありがたさに気づく」と口にします。確かにそうですが、では、健康であることは普通のことで、あたりまえのことなのでしょうか。
私たちは、「老・病・死」を生きる身ですから、病気になっても不思議はありません。身近な人の死に出会うと驚き悲しみますが、いつ死んでもおかしくない「生命」を生きているのです。「健康であることがあたりまえ」、「死なないで生きていることがあたりまえ」と思っていたのが、実は「あたりまえではなかった」のです。反対に病気になるのはあたりまえではない」、「死ぬのはあたりまえではない」と思っていたのが、実は「あたりまえ」だったのです。

光に遇う人生

では何故、それが驚きかと言いますと、それは人間の知恵でわかったのではないからです。
私たちのふりかざす知恵は、自分に都合の良いことをあたりまえとし、都合の悪いことはあたりまえではないとし、自分と他を比較し、他を排斥し差別する知恵です。
その自分勝手な知恵が打ち破られたとき、「あたりまえ」が「あたりまえ」でなかったと驚き、「あたりまえでない」が「あたりまえ」だったと驚くのです。

それを打ち破るのは、限りない「いのち」のはたらきです。限りある「いのち」の私がすべてだと思い、そこにとどまって得手勝手な知恵をふりかざし、他を傷つけている、そのことさえも気づかなかった私にはたらきかけて、私の思いを打ち破るのです。
限りない「いのち」から見た私たちの「いのち」には、「あたりまえ」も「あたりまえでない」もなく、「普通」も「普通でない」もありません。あるのは「かけがえのない『いのち』」ばかりです。
限りない「いのち」とは、阿弥陀さまの「いのち」です。その「いのち」が叫び声をあげてくださったのが「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ) 」であり、それは阿弥陀さまの智慧のはたらきです。

阿弥陀さまの智慧のまえには、自分の都合でくるくる変わる人間の知恵など、とうてい通用するものではありません。
人間の知恵で、「あたりまえ」と思っていたものが阿弥陀さまの智慧に出遇うと「それはあたりまえでないんだよ」ときづかされるのです。また「あたりまえでない」と思っていたものを「あたりまえなんだよ」と知らせてくださるのです。
さらに「あたりまえ」も「あたりまえでない」も、「普通」も「普通でない」もない、真実の世界を開いてくださるのです。

それは、限りある「いのち」から抜けきれないで生きている、私たちの日常を超えた彼方から、日常を生きる問題を、根本的に解決してくださる光です。

その光に出遇う人生こそ、驚きの人生なのです。

               
「『み教えに遇う』 迦羅羅塾編 光英社」より抜粋
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